潮がひいた頃に、和子は海へいく。
潮がひくと、海がとおくになり、砂浜がみえる。
砂浜は、どこまでも、どこまでも、つづいている。
風が、着物を通りぬけていく。
浜からしばらく歩くと、和子は頭巾をとる。
頭巾をとると、和子の日に焼けたほほがぜんぶみえた。
頭巾に隠れていたこぶもみえた。
和子の片ほうのほほにはこぶがある。
なぜだかわからないが、生まれた時から、ふくらんだ餅のようにくっついている。
海は、和子のこぶをみても、なにも思わない。
なにも、なにも、おもわない。
その日、和子は友達のえつ子に会いに行った。
えつ子は5人目の子どもを産んだばかりだ。
和子はおくるみをぬった。
「かずちゃん、ありがとう。」
「えっちゃん、からだをだいじにしてね」
えつ子の家を後にしてからも、和子は赤んぼうの顔を思い出した。
かわいいなあ。
和子はのんびりと浜へ向かった。
道のとちゅうの民家から、子どもが泣いている声が聞こえる。
子どもは駄々をこねて、母親をこまらせていた。
母親は泣いている子どもに言った。
「ぼうや、いい子にしていないと、こぶができてしまうよ」
子どもは泣きやんで言った。
「あの頭巾のおばちゃんみたいに?」
「そうさ、ほっぺにこぶなんかできたら、ぼうや、いやだろう」
和子は、気づかれないように、そおっと、そおっと、はなれた。
ぞうりがぬげてしまいそうになりながら、浜へいそいだ。
海は、潮が引きはじめていた。
和子は、はるか先に見える海をめざして歩きだした。
歩きながら、頭巾を落とした。
いくつものの水たまりと砂浜をこえて、和子はいつもよりとおくまでやってきた。
ようやく、和子は泣くことができた。
ずっと、ずっと、海にいたい。
そのとき、しゃくりあげて泣く和子の耳に、お囃子がきこえてきた。
テン トン テン トン テン トントン
ピー コラ ピー コラ ピー コララ
和子はなみだをぬぐって、あたりを見た。
沖のほうに、人がいた。
和子は、とろとろと近づいていった。
テン トン テン トン テン トントン
ピー コラ ピー コラ ピー コララ
人がたのしそうに踊っている。
笛をふき、太鼓をたたき、三味線をひいている。
おどろいた。
この人たちは、いったい、いつからここにいるのだろう。
みな、白魚のような肌をしている。
町の者があそびに来ているのだろうか。
「ねえさんも、おすわんなさい。」
酒をのんでいた男が盃をさしだしている。
和子は男の前にすわり、ひと口のんだ。
「うまい。」
和子が言うと、
「そうでしょう。」
男はうれしそうにうなづいた。
「どうぞ。」
そこへ、子どもが貝をもってきた。
くねくねと動く貝を和子は口にいれた。
これまた、うまかった。
「さあ、もう一杯。」
男は酒を盃にそそいだ。
和子は、酒をそそがれて飲み、貝をたらふく食べた。
そして、おなか一杯になって、うつらうつらと眠くなった。
テン トン テン トン テン トントン
ピー コラ ピー コラ ピー コララ
どのくらい時がすぎたのか、和子は水のつめたさで目をさました。
水は和子の尻をひたしていた。
宴はまだあり、わらい声がひびいていた。
「ねえさん、もう二度と、浜にもどらなくてもいいんですよ。」
和子は息をのんだ。
「私たちはね、潮が引いたときだけ、人にもどるんです。
潮が満ちているときは、泡になってただよっています。」
男の目もとは、紅をさしたように染まっている。
こんなうるわしい男にも、泡になりたいと思うほどのかなしみがあったのか。
なんと答えたらよいのか分からないでいる内にも、波はしずかに寄せてくる。
和子は立ちあがった。
みな、そうなのか。
泡になったのか。
泡になって、日に一度だけ、人にもどる。
いいではないか。
「ねえさん、明日もいっぱい交わしましょう。」
男の顔は水につかった。
宴をしていた人たちは見えなくなって、泡が波まに浮かんでいる。
和子は一人ぼっちになり、ふるえた。
帯をほどいた。
夢中でかけて、およいで、かけて、およいだ。
最後に、波におされて、浜にあげられ、砂まみれになった。
あの日、和子は土壇場でこわくなった。
泡になりそこねた。
それからも、和子は潮が引けば海を歩く。でも、あの人たちに会うことはなかった。
今日も、よく晴れて、砂浜が見える。
こぶは、頬にあるままだ。
「あーあ」
そのこぶを触る小さな手がある。
和子は抱いている赤んぼうにほほえんだ。
赤んぼうは、こぶを触っていると機嫌がいいのだ。
和子は、母になった。
不思議なことに、夫となった人は、あの宴で盃をくれた男によく似ているのだった。
おしまい
